『われわれはどこから来たのか 何者か どこへ行くのか』

1897年 Paul Gauguin
ダビンチはモナリザを自画像として、死の日まで描き直し続けた。すべての人が生死に揺れる欲望の物語を、孤独に綴っている。すべての物語は、生きている間描き直し続けられ、死とともに完結する。バベルの塔や賽の河原の石積みとはそこが違う。
1. 前世
(1) この体はどこから来たのか。
@物を分子、原子と辿っていけばエネルギーに至る。炭を焚くと灰が増えるように、庭の草を毟って埋めると盛り上がる。増えたものは太陽のエネルギーに至る。「私」の体も太陽のエネルギーから生まれ、エネルギーに戻る。エネルギーの世界を出入りしている。
2. 今生
(1) この体は何なのか
@体は1個の遺伝子から始まる。遺伝子は文字のようなもので、命令が記されている。遺伝子を包む細胞は、遺伝子の命令通りに増え死にながら、体を造り維持している。体も生まれ死にながら次の体へ遺伝子を複写していく。
(2) 「私」は何なのか
@体は、内と外を区別して、内を治め外を守っている。その為には愛したり、憎んだり、食べたり、攻撃したりする必要がある。その使命を果たすべく脳の中に生じたのが「私」。「私」の正体は電気信号だ。「遺体」を観察すると、ついさっきまでそこに居たのに居なくなったのが「私」。消えたのはすべての欲望。「私」の正体は欲望だ。対象があって初めて湧き起こり存在している。その意味で、常に対象を求め、対象と何かをやり取りしていたい。子供の頃、父母に新発見を伝えることが最高の喜びだった。趣味も、同好の士がいればこそ楽しかった。学校もテストで一喜一憂する仲間がいてうれしかった。皆いなくなり一人になるとすべてが虚しい。虚しいという感情は、欲望を照射していた対象が消えた時に生じる。
A地上で地球を見るように、鏡の中から鏡を見るように、「私」は「私」を見ているので、「私」に「私」は見えない。人工衛星から地球を見るように、般若心経の知恵で外から見ると「私」が見える。平らに見えていた地面が球体だったり、止まっていると思っていた地面がグルグル回っているように、世界は「私」の欲望が写している映像で、光源は、科学や知性ではなく欲望だったことがわかる。「私」に見えているのは、「私」の欲望が照射している世界で、欲望から外れた世界は存在しているが暗黒だとわかる。物から反射する光が、網膜から大脳辺縁系へ光の点として伝わり、大脳新皮質で欲望が線や形、意味をつけて、「私」に伝えている。
B宇宙人はこう言うかもしれない。「地球人には物そのものは見えず、コウモリのように欲望の念を照射して、その反射で物を見ているようだ。地球人の欲望は強く、何時でも、何処でも、何にでも欲望を照射する」と。
(3) 欲望の種類
@宇宙には宇宙発生時に生まれた微弱な電波があらゆる方向から充満している。そのように、脳の中にも対象のないザワザワとした微弱な欲望が充満している。嗜好品や薬物、暇つぶしで一時的に静めることも出来るが、依存症に進む。我慢するのが良い。
A生きるために必要としている事物への欲望。空気、水、食物、温度、睡眠。我慢すると脳が衰弱し働かなくなる。
B脳の快感物質を欲する欲望。後天的に学習し、際限なく強まり、依存症になって、人格や行動の調和を乱す。満たさないと、脳が禁断症状を起こし、苦痛から逃れようとする欲望が湧く。我慢すると弱まり元に戻る。欲望に負けて、満たすと、一時的に治まるが、更に強くなる。
(4) この世界は何なのか
@ 何が見えているのか
1) 「私」が欲望を照射し反射してきた価値の感覚。「私」の夢や想像も、他人には見えないが、「私」には地球の裏側よりずっと確かに存在している。夢で、今はいない友人が「こいつは涙無しでは食えないね」というのを聞きながら、その手の中にあるホットドッグを眺めていた。共通の記憶があるはずだが思い出せない。目覚めても、なんともやるせない気分になったのを、はっきり覚えている。そんな時、世界は二つ在って、自分は両方の世界に生きているのがわかる。
2) 懐かしい道に迷い込んだ。昔の自分の足跡を捜しすがどこにも無い。心の中にあるだけ。風景はその場所にあるのでなく、心の中にある。
3) 満月に幸せな思い出が在る人は、それが失われた悲しみが、満月を見るたびに、湧いてくる。満月は鏡で、心を映しているだけだが、満月が悲しみを与えるように感じる。
A 「私」が生きている時間について
1) 宇宙の運行や季節の変化を計る暦とは別に、脳で感じる時間があって、「私」はその流れを泳いでいる。そんな時間を「私」が意識するのは、地下鉄で「早く目的の駅に着かないか」と思っている時。眠ったり、本を読んでいるとその時間は消える。時間の正体は「私」の欲望だ。「私」は欲望の海を漂うクラゲで、欲求不満が波を起こし、波の抵抗が「私」に時間を感じさせる。千一夜物語のシェラザードは、話を毎日区切って、「王様の欲望」も毎日区切って、毎日少し残して充分満たし、時間を忘れさせた。今が満足だと時間は消える。今が不満だと、未来に満足を求める。未来の正体は「私」の欲望だ。時間の長さや未来の輝きは、欲望の強さに比例する。加齢とともに時の流れが速まり、未来が色褪せるのはこの理由による。ロビンソンクルーソーは、無人島で、こんな気持ちでカレンダーを刻んだのだろう。
B 「私」が生きている他人との関係について
1) 言葉は人が発するエネルギーの一種で、物体は動かせないが、他人の脳を動かす。DNAの働きに似ている。見えない心の中を、見えるようにして、キャッチボールをしたり、共有したりする。
2) 言葉は、脳から脳へと複写されていく。文字や絵や音楽となって、保存されたり蓄積されて、遺伝子のように、個体の寿命や時間や空間を超えて、永続的に働くようになる。人々の心の井戸と繋がるためには、自分の心の井戸を水源まで掘り下げなければならない。モーツアルトの音楽が万人の喉を潤すのは、苦悩の体験が心の井戸を深く掘り下げ、皆の井戸の水源に届いているから。美味しいのは、その浄化作用が優れているからだ。
3)「私」はどのように欲望をやりとりするか。「私」の欲望を他人に理解させる手段は、情、言葉、物。情は愛に、言葉は文字に、物は金に発達して、蓄えたり、やり取りし易くなった。相手がどれを欲しているか。どれが相応しいか。相手の心を推し量る。これがコミュニケーション。両親や祖父母、夫婦、子供なら、お互い与え与えられる喜びを感じて、情で報いられている。別に報いる必要はない。さらに、言葉や、しぐさで補強する。情抜きで、利用したりされたりだけの関係とみなした相手には、同じ物を返す。情には情、言葉には言葉、挨拶には挨拶、親切には親切、金や物には金や物。
(5) 「私」の 欲望を管理したい。
@ 美味しい食事は空腹から始まる。食物を見つけた喜び。欲望が満たされる予感。食べる。五感が大脳辺縁系を刺激して快感を生じ、脳内麻薬が放出され、大脳新皮質が快感を味わう。人の大脳新皮質は発達し過ぎているので、さらに強い美味を頻繁に求めるようになる。美味への欲望が際限なく拡大し食欲が空腹を超える。こうして人は必然的に、体と心の均衡が崩れ、奇形になっていく。 「私」が「私」を制御しなければならない理由はここにある。
A 「私」は欲望そのもので、周囲の物や他人を欲望の対象として見ている。 他人の欲望と衝突しない。他人の欲望を刺激しない。皆が欲しがるものに近づかない。空気や水のように普遍的にあるものや他人の欲しがらない餌を見つける。蝙蝠のように他人と違う時間に、ペンギンのように他人とは違う場所で餌を見つける。他人と争わずにすむ餌場を見つける。欲望の器を小さくして、欲望に引きずられにくい、欲望を満たしやすい脳を作る。自分の脳の中に、誰とも争わずに、欲望を満たせる、楽園を造る。「私」は理解不能な物に惹かれる。危険かもしれない物に惹かれる。知的感動や冒険は、とても良い欲望の充足方法だ。良い方向で考えると良いことが見える。悪い方向で考えると悪いことが見える。共通点を考えれば融合し、相違点を考えれば対立して見える。見方を変える。行動が変わり、結果も変わる。
(6) 私はどうしたら良いのか。
@ 不安はどこから来るのか。
1) 健康で長生きしたい。忘れられたくない。孤独になりたくない。愛され続けたい。親しい人と一緒にい続けたい。つまり死にたくない。不可能を望みそのことを自覚しているから不安になる。
2) 大脳辺縁系が送り出す「生きる欲望」の信号と、大脳新皮質が送りだす「いつか死が来る」という信号がショートして、「不安」の火花を散らす。体だけが老けていく。心は年をとらない。体が役割を終えても「私」は「私」の継続を望むように出来ている。
3) 高速道路で横風を受けて、ハンドルのコントロールを失った時、脳に冷たい電流が走る。人生でも、目標を失った時、恐怖を感じる。暗闇や物陰、正体不明の生物、自分の死にも恐れを感じる。他人の死は「体の死」でわかりやすいが、自分の死は「心の死」で、眠った瞬間に周囲のことが見えなくなったり、自分の死に顔が想像できないことを思って、恐怖を感じる。
5) 食欲が強い人もその欲を失い、家族愛の強い人もその愛を失い、権力や財力を持つ人もそれらを失う。虫や蛇は楽々と脱皮しているが、「私」は体からの脱皮にひどい痛みを感じるように出来ている。
A 不安を無くし、安心したい。
1) 無や虚、空は、「不安も苦悩も欲望が見せている虚像だ。そのことに気がついてここに降ろしていきなさい」という立て札。欲望を信じて見れば、死は敗北、挫折、破滅に見える。今となれば、生まれてきたことも、生きていることも幻だ。死ぬことも幻だ。そしてこの不安も悲しみも幻だ。
2) 光がチリに反射して明るくなるように、太陽の火炎が黒いガラスを透かすと見えるように、「私」の姿は死の鏡に写したり、死の闇を透かすとよく見える。人は成熟すると「私」の死を考えるようになる。
3) 死ぬことは夢から覚めることに例えられる。蝶だった夢から覚めて人になる。夢の中の蝶には、覚めて人になっている自分がわからない。その自分にも死後の自分は見えない。他人の死に見えるのは「体の死」だけで、「心の死」は見えない。自分の死は「心の死」で、自分には理解できない。見えない、理解できないことは恐ろしい。死だけが怖いのではない。生まれて初めて空気と光の中に引き出され肺呼吸を始めた時、幼稚園に行けと言われて初めて他人の中に放り出された時もそうだった。これらは命の現象で、異常でも理不尽でもない。誕生が嬉しいように死は悲しい。私が勧める処方は「般若心経」で、死を平常心で受容れるように教えてくれる。
4) あと数ヶ月の命といわれている友人が何を言っても、腹は立たないだろう。許してやれるだろう。その欲望の儚さが見えるからだ。欲望をそのように捉えれば、すべての不安や不満は消える。
5) 登山口までは欲望のコンパスが使えるが、死出の旅の地図には登山口までの道しかない。その先は無いのではなく、欲望の道しるべが無いだけ。
3. 彼の世
(1) 死んだらどうなるのか
@ 死とは何か
1) 小児は、脳の中に母親の存在ができていないので、母親が見えないと泣く。少年は、脳の中に母親の存在ができ始めているので、家に母親がいると信じられれば、安心して外で遊ぶ。成人になれば、脳の中に誰彼の存在ができているので、相手が地上の何処かにいると思えば安心する。まだ脳の世界が現実世界より弱いので、地上ではない所へ行くと知ると悲しむ。いつか、脳の世界が成熟して、現実世界を超えると、その人が脳の世界の一部になって、遠く離れても、あの世に引っ越しても、全く変わらない関係が保てる。
2) 人と人との関係は脳の中に作られたもので、体の生死とは別だ。だから「体の死」は、関係の終わりでも別れでもなく、関係が脳の中に移行しただけ。体にとらわれ永遠の別れと思うと、犬猫と一緒になる。彼はどこにも行っていない。同居していた肉親にとっては、体のイメージが強いので、体との別離の印象が強いだけ悲しみが深い。離れていた人にとっては元々心の繋がりだから、体が死んでも、脳の中の彼は何も変わらない。
A 死後も忘れられたくない。孤独になりたくない。愛され続けたい。親しい人と一緒にい続けたい。
1) 死後には欲望も消え、時間も消えているのに、死後の長い時間をどう過ごすか悩んで、ピラミッドを作った王。
2) 死後の名声を望む。名声とは、自分の名前が世人の欲望や感情を刺激する状態をいう。そんな状態を喜ぶのは自分だけ。自分の欲望が消滅した後にも名声を望む人。
3) これらは生きているときの欲望とまったく同じ。要するに死にたくないということを言っているに過ぎない。
B 死んだらどうするの。
1) 以死為貴。 死をもって尊しと為す。
・ 葬儀無用。
・ 悔やみ無用。
・ 死に顔無用。
・ 戒名不要。
・ 墓不要。
2) 卒業のように、悲しくもあり、うれしくもありたい。
3) 心電図が止まった時に体はお終い。幕が下りて残されたのは観客だけ。化粧を落とした役者を楽屋から呼び返すより、彼の記憶をそれぞれの人生舞台に持帰ればよい。家族は「体」のイメージが強いから「体」とのお別れをするのも良いが、友人程度なら晩年の写真や死に顔を見せられても、何とも言いようの無い気分になるだけ。彼は、皆の心にそれぞれの姿で生き続けている。その記憶を乱さないほうが良い。人と人は脳の世界で繋がっているのだから、死んでも関係は変わらない。彼は皆の心に住み続けている。却って時間や空間、感情の束縛無く、素直な気持ちで話が出来るようになる。葬式は「体」を無にするだけの儀式。どうせなら、葬式なぞしないで、「心」をそっと生かしておいたほうが良い。
4) 富士山はマグマの活動の跡だ。活動が消え噴火口が美しい。貝は死んで砂浜に打ち上げられて星のようだ。蚕は繭をつむぎ絹を残して消える。人も仲間への信号を残して消える。火葬では骨が残る。その人の一番大切な部分は脳で水とガスになって眼前から消えている。骨は風呂上りに切った爪、床屋で切った髪の毛のように、保存するようなものではない。活動していた物と、残された物。活動は消えて残骸しか見えない。本質は活動に在って、それはDNAのように、既に他者の脳の中に複写されている。命の現象を理解し、受容れる為には、残された物にこだわらないほうが良い。
5) 葬儀は、欲望の消滅式という意味で、現世のものではない。宗教は知的弱者が頼るもので関わりたくないと思っている人も、いざとなると宗教的なものを求める。葬儀は香りと同じ虚の世界に属する。虚だからこそ死を受容れることが出来る。葬に必要なのは微笑みと少しの香りと一時の家族の悲しみ。不要なのは、未練や悔やみの言葉(残念でしたね。無念でしたね。もっと長生きして欲しかったですね。本人も無念でしたでしょう)。その根本は「自分以外の人は早すぎる時に、突然、理不尽に、無念の気持ちで死ぬが、自分は満足して一番最後に死ぬ」と信じている無意識の欲望にある。死は欲望が消えるという意味で、人生最初で最後の完全な満足だ。諦めの微笑みと涙が相応しい。体と別れる遺族の悲しさは確かに在るが、死の本質ではない。釈迦涅槃図では、釈尊の遺体を囲んで高弟達が身もだえして嘆き悲しんでいる。誰がどんな意図で描かせたのか理解できない。
6) 母 後家となる 花曇り
・ 悪口も出る 三回忌
・ 十三回忌 仏の座
・ 春の墓 なればこそ 花の道
7) ガンジス河岸
・ 父の手で 死児湯浴みして また黄泉へ
・ 眼前に 足だけが 燃え残り
・ 10ルピー 蓮の小舟で 灰流し
・ ボートから ガートを見る 彼岸にいる
・ 死牛も カラスを載せて 彼の海へ
・ 満足の湯気立ち上る沐浴に 朝日
・ 蟻のごと 生業で 人々 姿異なる
・ 垢にまみれた紙幣よ 何を運ぶか
・ 貧しさは 銭の力を 際立てり
・ 貧しき市場 食堂だけが 目立ちおり
・ 食は 極楽で また地獄
・ 牛の目の優しさ 人の眼の欲の鋭さ
・ 牛も混じりて 和やかに
・ ハリジャンも 牛を見て 慰めり
・ 牛を 父母と思う 町の角
・ 満足は 諦めと 見つけたり
・ 朝もやに 人黙々と 歯を磨き 牛黙々と 歩み去る
4. 愛香会
(1) 愛香会。香りの庭。この庭の花には香りがある。食べにくる、吸いにくる、その虫たちを狙ってくる。そういう世界はもう終わり。香りでお腹は満たせないが、心の一部を温めてくれる。心の中には生きる欲望が「死」の影と一緒に詰まっている。
(2) この庭に木を植えよう。花が目的なら花屋で買えばよい。紅葉が目的なら街路樹のほうが見事だ。この庭に植えるのは、木陰を作り風を防いでくれる、寿命の長い木がいい。その木の下で、空しさを悟るのは、そんなに難しいことではない。
(3) 1億年前、巨大恐竜は150年、人の祖先は3年の寿命だった。短いサイクルが進化を促し、種の繁栄になった。人や象の寿命は80年、犬や猫は10年。寿命は、体の大小や模様と同じく、種の存続のための、変異の一つに過ぎない。科学は欲望に盲目的に媚びて、寿命を伸ばせるだけ伸ばす。欲望への盲従は人を奇形にする。科学には価値観が無いので、止められない。そんな風潮の中、私も死に時がわからない。豚が食べるのを止められないように、生き続ける欲望を捨てられない。食えるだけ食う、生きられるだけ生きる。何かが突然やって来て、勝手に止めてくれるのを待つだけ。無念残念な冬が迫る。身に凍みる。未来とは、何か自分にとって良いことが待っているような、欲望が見せる幻のこと。そんな幻に牽かれて崖に迫る。夢は枯野を駆け巡る。どうすればいいのか。「死への怖れは欲望が見せる幻である」と受け入れ、欲望を小さくして、家族を不幸にしないようにできれば良い。