鎮魂ノ湯(したいことはすべてした。見たいものはすべて見た。あとは、死の安心を得るだけ)

夢は枯れ野をかけめぐる。この世とあの世の境界で、宙に浮いてしまうものの始末。死後の事まで悩んだり、子孫や墓にこだわるのは、欲望のため。欲望は、満たせば、際限無く深まる。欲望から自由になるには、欲望を満たすのでなく、突き放すこと。「私」は、痛む指を外部の物のように感じる。必要なら切り落とすことも出来る。「私」は自分の死を想像する時、自分を他人のように考えることができる。そんな「私」なら、タイムスウィッチを受け入れて、死を、穢れとする原始の感情を克服して、生の一部として肯定的に受け入れ、やすらかに生きることができる。

体にはタイムスウィッチがついていて、死を受け容れるが、人の脳にはその機能がついていない。この欠陥から苦が生じる。猫は自分の死を想像することがないという意味で、苦から自由だ。その時になっても、外敵に脅かされたのと同じ感情で、身を隠してじっと待つだけ。人だけが、自分の死を想像して、抽象的な恐れを抱く。精神が不安定になる。バランス上、生まれる前の世界、死後の世界が必要になる。

そのことを思い出すと胸が痛む時、地獄が脳の中にある。そのことを思うと天にも上る気持ちになる時、天国が脳の中にある。キリストは、脳の中に天国を造れといい、釈迦は、脳の中を地獄にする欲望を突き放せと言った。

娑婆では、肉体年齢は低いほど、精神年齢は高いほど良いとされる。盛りを超えたら潔く精神世界へ移住しよう。年齢は消える。

夏の青空にそびえる入道雲や、夜の河原の星をながめても、日常の欲望が離れない。私は欲望の執行者で、役割はあるが中身の無い鏡だ。その意味で、私は欲望そのものだ。私は物に欲望を投影して見ている。その意味で、世界は私の脳の欲望が映し出している幻だ。現実世界では満たしきれないほど膨張した欲望、不死や完全な満足、それを満たすのが神仏。神仏への欲望も脳の中にあり、その映写機が自然の石や草木、大地や海のスクリーンに神仏を映しだす。偶像は神仏が外にあると信じている人のために作られる。